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久々の北伐動画。今回は諸葛亮と司馬懿初の直接対決となる第四次北伐。
上邽での戦いまでです。
解説 :パチュリー
曹叡 :橙
諸葛亮 :映姫
司馬懿 :永琳
魏延 :華扇
張郃 :慧音
郭淮 :ミスティア
李厳 :諏訪子
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■前回
曹真死す篇
☆参考サイト
■三国志、全文検索
http://www.seisaku.bz/sangokushi.html
■三国志総合情報サイト
https://sangokushi.jp/
■维基文库(資治通鑑)
https://zh.wikisource.org/wiki/%E8%B3%87%E6%B2%BB%E9%80%9A%E9%91%91
■BGM
銀の意思 /英雄伝説 空の軌跡SC オリジナルサウンドトラック / Copyright © Nihon Falcom Corporation
■背景のゲーム
Spintires Mudrunner
#三国志
#歴史
#ゆっくり解説
未知の技術=
まず先頭の木牛の取っ手の部分を馬に繋ぎその後木牛を数珠繋ぎにして運んだのでは?
馬車はまずその横幅がネックになるのでスマートな木牛に置き換えれば行けたのでは?
正史には「臨機応変な対応は苦手だった」みたいに書かれていますが、それは逆に蜀軍の異常な兵站を実現するため柔軟に動けなかったのではないかとおもいます。
予定外の計画は最適化が難しいですから。
案外諸葛亮も、魏延の献策を取り入れたい誘惑に耐え続けてたかも?
後世の史実や演義を知っている者からすれば、司馬懿は諸葛亮と対峙した名将のイメージがありますが、よくよく考えてみればこの時の司馬懿って、後任の司令官なんですよね。
当然、司馬懿は曹真ほど現地部隊を掌握できているはずもなく、まずはそれらの将兵を、掌握することから始めなければならなかったのかも?
戦死者三千人が多いか少ないか、冷酷な言い方をすれば、これで将兵が司馬懿の命令を聞くようになったとすれば、結果的に安い損害で済んだといえるかと。
比較対象にローマのファビアン戦略があげられていますが、ローマ軍や元老院、ローマ市民がファビアンの主張の正しさを認めて、その戦略に転換するために、カンナエの戦いで六万人の損害を出している。それに比べれば三千人の損害は安い安い。
ファビウスはのろまからローマの盾にランクアップしたけど、司馬懿は盾の裏で牙を魏に向けてたのがなんとも
いつもありがとうございます。 今回のは話しぶりが特に楽しいです。
マッドランナーでトラック使って資材運ぶのだって大変なのに、人力で攻城兵器運んじゃう蜀軍ヤバいですね(白目)
キーパーソンが漢中にいるね。
長安取られても良いと考えてたりして
ま、それはないか
昔の話だから、記録がない部分は想像するしかないけど、それにしたって蜀関連の人間って兵士に至るまで超人だよねwww
補給限界超えてどうやって戦線維持してんのかね。なんか本当、物理無視してて草www
事物紀源によると、木牛とは四輪車で流馬とは一輪車らしい。
想像なんだけど、常にそれらを伴って移動したのではな無く、一輪車を細道の入り口と出口に、四輪車を広い道の入り口と出口に多数配置し、荷物を移し替える形で運用して細道も利用する形で出来る限りのショートカットをして人力のみか、もしくは途中まで馬車で後は人力で運んだのではないかなと思う。 進軍しながら工兵部隊に各地点での木牛流馬の現地組立を行わせたのかなとも。
もしくはその時代に小型軽量超高カロリー保存食なんてあったのかな。
諸葛孔明は最初から魏軍が兵力分散したのなら攻め、集中したなら敵地で防衛して揺さぶる二択を取るつもりだったのでしょうか。司馬仲達は敗走しない程度にわざと負け、張コウを敗死させて好敵手も排除した。陳舜臣の著だったでしょうか。色んな想像ができる面白い戦いだと思います。
映姫様こと諸葛亮が何も喋ってくれないから諸葛亮の心が分からない…
いったい何が諸葛亮を突き動かすのか・・・?
もういいじゃないですか…。止めましょうよこんな戦い
そりゃ曹一族は漢から帝位を簒奪したけど
それで魏国は安定してしまったんだ。いままでと事情が違うのよ
もはや民は争いを望んでいない
例えるなら寝取られた彼女はもうおじさんの子を産み
そこで幸せな家庭を築いているのよ
この幸せを壊すのは、彼女自身が望んでいないんだ!
諸葛亮がやろうとしていることは祟り神でしかないのよ
馬車以上は運べないについてですが、ベトナム戦争の際北ベトナム軍はジャングルを自転車に大量の荷物を括り付け(100キロ近く)これを手で押して踏破して補給していたといいます。
(勿論トラックもありましたがそういう太い道は米軍の夜間爆撃機が徘徊している)日本陸軍の36式輜重車(大八車をそのま馬に引かせたデザイン)は150kgが一応(一頭立て)
標準量だったはず。意外と人力推進も凄いのですよ。馬ってストレスに弱くて簡単に死にますし。
軍事は政治に制約されるし、支配下におかれるもの。度々隴西地方と本国が分断され民心が安定せず、政治的理由で派兵して「お前らは見捨てんからな!」とやる必要があったのでは?
隴西方面の名士て旧漢帝国に郷愁を感じる人々が多くいたと「その後の三国志」に書いてあったと思います。姜維があっさり蜀についたものそういう大義名分が重んじられる土地柄だっと
読んだ記憶があります。なので民心安定には派兵して、住民の目の前で蜀軍を打ち破って見せる必要があったのでは?
蜀軍は実は飛んで山脈越えたか、山脈にトンネル掘った後に進んだとしか考えられない行軍ですね。
そもそも曹氏か夏侯氏しか本来就けないハズの方面軍司令官に司馬懿がおることが異常事態だから、正史に記載はなくとも何らかの制約が司馬懿の行動を縛っていたと妄想してます。
遂に宿命の対決、孔明(四季映姫)対司馬懿(永琳)の初顔合わせだというのに、横綱がいないという空虚感が消えない・・。曹真の存在の大きさを思い知る・・。
いつも楽しく動画拝見しております。
さて、20年近く前の本ですが、『「三国志」の迷宮 儒教への反抗 有徳の仮面』(山口 久和著、文春新書)という本があり、
正史ほかの文献の関する古今の研究を踏まえつつ、思想史や地政学的観点から三国志を解説されています。
投稿者様の考察に近い内容もありますので、未読でしたらご参考にされてはいかがでしょうか。
個人の見解ですが、司馬懿が後方を空けたのは敵兵力を誘い出すための囮と考えます。
国力、兵力に勝る魏からすると多少割りは悪くても蜀の兵士を消耗させれば後々有利になるはず。
山脈北側を無防備にさせて、蜀軍が進出したら秘密の別働隊で殲滅。
ついでに張郃の策も却下してスパイにも後方がら空きをアピール。
しかし、蜀軍の進出がなかったため、秘密の部隊は永遠に秘密。がっでむ。
もっとも、別働隊が無くとも、司馬懿は川の上流にいるので、兵力を何割か抽出して川下りすれば、恐らく短時間で後方奪還可能と考えると、
事前に奇襲に備えなくても、実際に起きてから対処して間に合いそうだから、兵力を一箇所に集中させておいただけかもしれません。
次回ヤムチャ死す デュエルスタンバイ!
前も書いた気がするけどこの地図しんれー山脈以外は平地なのかと思って陽平関~き山までは平地なのかと思っちゃう。そして平地なら途中に村があって畑がありそう感
逆に魏軍はジョウケイの麦が刈り取られて食料どうしてるんだろ。チンソウとの間の山超えて補給のほうが大変そう。さらに西や北は平地なのか山なのか町があるのかもようわからんし。
これ司馬懿も分からんが蜀もわからねえんだよなあ。
長安奇襲の別動隊が無いなら蜀のチャンスは魏が攻勢失敗して乱れたところを追撃して戦果を拡大させる(曹叡が懸念した通りの方法)カウンター攻撃しか無いはずなんだが(だから守りを固めつつジリジリと後退していた)。
それなのに魏の失敗に乗じて追撃とはならなかったの?それともできなかった?
これだけ見てると孫が皇帝になったから持ち上げられてるだけで、この当時の司馬懿は軍を指揮する能力はあまり高くない?少なくとも前任の曹真よりは弱いっぽい。
蜀軍自身の兵士も現地で調達できる、と考えてみてはどうでしょう。蜀本土から行軍するのはごく少数だとしたら?
分かりやすいように、例を挙げてみます。ナチスが占領下のフランスで調達や徴兵するのは困難だったでしょう。でも開放軍という立場の連合軍であればどうでしょうか。
魏軍が割り切った作戦を使えるのは、子午の役によって蜀軍の全体像が把握出来たからでは。
祁山の救援に行った本隊が危機に陥るのは、街亭方面の連絡を断たれた時で、山道を越え城を落し先の街道まで封鎖となると、それこそ蜀の別動隊には未来技術でもないと難しい。
魏軍は本隊さえ崩壊しなければ、祁山が陥落しても上邽などの都市群を頼りに粘るだけで、蜀軍は祁山を確保しきれず放棄する事になるかと。
10:33 まあ、でも戦役の勝敗と戦闘の勝敗は別物ですから。
4:15 なるほど、バックハンドブローくらったら壊滅するというわけですね。
北伐編を観るほど,孔明とハンニバルが重なって見える。包囲戦術と心理戦で敵を追い詰めるのが攻撃側のセオリーなのか。
動画の通り,防御側はファビウス戦略による補給戦で時間を稼ぐだけで有利。
ハンニバルとの決戦を急いだローマは犠牲者6万人を出した。犠牲者3千人で済ませた司馬懿は計算ずくで将兵をガス抜きさせたのかもしれない。
5:45
つまりはこういう事でしょう。
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行く行く詐欺
「ホンマ郭淮しっかりせいや」にも笑ったけど、
18:40からの祁山守備隊の人たちの心の声が面白すぎるw
援軍の成否が自分たちの生死に直結するだけに、気が気じゃなかったでしょうね。
蜀の兵糧ストロングゼロかよw
アレ飲んでヒャッハーした状態じゃないと300kmの山中行軍なんてやってられんということかな?
広範囲に兵士を広げるより、李厳を調略した方が早かった?
ファビアン戦術…確かにね、ファビウスの方針にしびれ切らせてヴァロとローマ市民が打って出た結果がカンネーだし。
演義だと孔明は北伐で色んな奇策を用いたけど、正史のここまでの策は異民族の協力要請、手薄な所を狙う、持久戦といった有効だけど地味な策ばかりで策謀に関しては飛び抜けて凄い訳でもないね。
でも、持久戦を行えるだけの仕組みを整えてる事から後方としては飛び抜けて凄い事は異論の余地はない。
魏軍側は司馬懿と張郃が不仲で統制取れてなかった可能性もある。軍人としての実績は司馬懿よりも張郃のほうが高いし、軍権握るために司馬懿が張郃潰しにかかったんじゃないか?
あら?
もう20分超えてたの?
体感時間が短過ぎやで。
ようこそ関西へ。大歓迎でございます。
賤ヶ岳は後の100万石の裏切りが全てでそれがなければ佐久間は善戦はできたと思いますよ(勝とは言っていない)
横山三国志だと孔明の北伐は淡々としてて蜀軍普通だったけど、こうして説明されると本当に異常で訳ワカメw
蜀軍って身1つで敵地に乗り込んで侵略するサイヤ人だったんじゃないか?ってくらい恐ろし過ぎる。
正史の司馬懿や魏軍の行動に不可思議な点があるのは、後に司馬炎が天下を取った事と関係あるのでは?
毎度の事ながら、蜀軍が秦嶺山脈を越えてくる事が当たり前になってるのが恐ろしい。
攻める時は要害で、守りには期待薄ってどうなってんだ…。
もしかしてというか本当であったとして証明のしようもない話なんですが、曹真が最期の抵抗、最後っ屁のように各4つの道を全てメタメタに破壊して帰ってきており、司馬懿はそれを加味して後方に兵を置かなかったとしたら?
それなら蜀が持久している間に別働隊が道を修復して山中を啓開しようとしていた等で色々説明が付くんですが…
司馬懿というか、魏にとっては、最悪、陳倉までなら、くれてやる。
されど、眉尾や長安までは、やらんという戦略だったのでしょうか?
陳倉までなら、司馬懿の命までくれてやるで。
京都大阪間は新快速(30分)を使ってると距離感覚が麻痺しますが、自転車でも結構骨が折れますし、大阪駅から徒歩だと私なら新大阪あたりでダウンしそうです。秀吉が大坂城、淀城、伏見城と舟運利用範囲に拠点を置いたのも分かります。
想像ですが周辺都市から賊討伐の名目で長安付近まで将兵を動員していたとか軻比能を早々に鎮圧して情報を聞き出していたとかですかね?
このときの司馬懿は解ってたかのように思い切りがいいですね
後方がら空きか~。誰か蜀で部隊を率いて攻撃できる将軍居るかな?
李厳は補給の役目で動けないだろうし、ほとんどの将軍は諸葛亮が連れて行ったんじゃないかな?
司馬懿は諸葛亮さえ押さえれば、他に動ける人はいないから大丈夫、とか考えたと予想します。
って、これで前編か!後編の作成、がんばってください><
待ってました‼︎
久々の北伐めっちゃ待ちかね乙です^^
驃騎将軍のなんちゃらって題のタイトルの本で霍去病が武官No.2だったので覚えたね
それまで将軍ランクの詳細てば大将軍、前後左右が有る位しか知らんかったわ
一つ疑問があって、なぜうp主はなぜ漢中を中心に馬車限界を引きたがるのですか?
実際の戦争はHoi4のように補給は首都から湧いてくるものじゃありませんよ。それに戦争とは準備、準備、準備で決まります。確かに諸葛亮は戦術で幾度もの敵に勝ってきた軍史の中でもひときわ輝く存在ですが、戦術だけが取り柄のものは名将ではありません。彼が真の名将である理由は謀略で相手を翻弄する事よりも、準備で勝ってきたからです。
進軍ルート上の小さな町ごとに補給基地を作る。
もしくは主力の軍を駐屯する前線基地を岐山の近くに設置し、それと同時に屯田兵も配置して平時は食料を作らせれば漢中を中心に馬車限界を引かなくても良いのでは。
なんというか毎年毎年鎧兜に武器食料担いで数百キロ以上のあの山脈をなんでやって来れるんだ?
蜀軍はパワードスーツでもあったんですかね?…
んで曹真が死んでしまったのが本当に惜しまれますね…
そんで渭水とか擁って昔の秦国の王都圏ですか?
後ろがら空きなんは蜀軍へのエサなんやろな。
洛陽からの後詰めがあったかのかわからないけど、即戦即決を基本としてた司馬懿だからね。陳倉から一気にかける戦略もあったかもしれない。孔明の追撃は今度は魏軍が馬謖の立場だから街亭時の王平の対策でなんとかなる。さすがに三千しか残さないはずないからね(笑)